『人道援助、そのジレンマ』

—-人道援助の活動家は悲劇性を免れることができるでしょうか。人道援助がボスニアでの戦争を引き延ばしていると言って非難されたことを、あなたは知らないはずがないでしょう。ともかくこれは考える材料になります。そうは思いませんか。

確かに、人道援助はこのジレンマを逃れることはできません。そしてこの点にこそ、もろもろの分野を混同してはならないもう一つの補足的な理由があるのです。今世紀初めの人道援助条約[ジュネーブ条約]をめぐる最初の討論のとき以来、このような異論が軍人たちによって持ちだされてきました。彼らはといえば、もっとも残忍でない戦争はもっとも短いものだ、と強調したものです。紛争に余計な手段を一つ投入すれば、それだけ紛争を長引かせることになる、という主張ですね。

これにはうまい解決策はありません。むしろこの与件を、人道援助の構造的矛盾としてとらえなければなりますまい。この矛盾を現実的なものと見なそうとしなければ、盲目ぶりによってか、日和見主義によってか、誤りを犯すことになるでしょう。人道的援助が戦争の全体構造のなかに必然的に組み込まれている—-これはこの上なく自明なことです。しかし、だからといって、現地に介入してはいけない理由になるでしょうか。

たとえば、われわれが食料を配る家族は、しばしば戦士を、つまり武装した民間人を抱えている家族です。飢饉の地域に食糧援助をもちこむことによって、流用行為がいっさいないとしても、われわれは戦士に食糧を供給することになるのです。だからといって、そうすれば避けられるかもしれぬ、来るべき苦悩の名において、この援助を拒否すべきなのでしょうか。私はそうは思いません。人生の収支決算が全体としてプラスになっていればいいと考えて、他の人々には同じ生きる権利を拒んでおきながら、ある人々のために生きる権利を援用することは、人道援助の観点からは絶対に受けいれられないことです。しかし政治的観点からは、事情が変わってくることはもちろんです。さもなければ、全国家が軍隊を解散しなければならぬ事態に置かれるでしょう。

私は確信しますが、ボスニアでは、人道援助の諸組織は行動しなければなりませんでした。行動しなかったとしたら、みずからの誓約を裏切ったことになったでしょうから。私の見るところでは、NGOのように行動するふりをして、実は自らの誓約を守らなかったのは国家の方でした。

純粋に道徳的な面では、押し付けられた苦悩と避けられた苦悩を計算することなど、ただ単にできない相談です。ここにつきまとうあらゆる矛盾にもかかわらず、人々を救い、悲嘆を軽減しようとつとめる行為こそ、変わらず基本的に重要なのです。このような行為を、壮大な政治的計算に付随するはした金のように見なすわけにはいきません。しかしながら、人道的援助には倒錯的な結果があり、戦争を長引かせるという事実を認めることは、とるべき行動のタイプについて、行うべき管理について、われわれが保持しようとする救援の水準について、納得のいくまで自問する機会を少なくとも与えてくれます。逆にこの問題を解決することができるのが、「国連軍」や外国派遣軍の存在でないことだけは確かです。それどころか、彼らの存在がむしろ事態を悪化させる傾向があることは、経験の示すとおりではありませんか。

「明日への対話」人道援助、そのジレンマ―「国境なき医師団」の経験から 「明日への対話」人道援助、そのジレンマ―「国境なき医師団」の経験から
ロニー ブローマン Rony Brauman 高橋 武智
 

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