Aufklarung.

実は最近、”Aufklarung” という言葉にとても縛られつつあり、つまりは “Enlightenment” であり “啓蒙” なのだが、「わかっている人」が「わかっていない人」に対して知財のトランスファをする、という意味合いではあるにしても、じゃあその「わかっている人」と「わかっていない人」の差分はどこにあるのか、という切り分けは実は非常に悩ましい問題なのだな、と感じるようになってきている。
たとえばヒエラルキーのある組織体で、えらい人とそうでない人の関係を考えた場合、「そうでない人」の声や視点は、はたしてどこまで汲まれるべきか、という。規則なりルールなりがあり、それにのっとっていくのが組織体であるとして考えた場合、たとえば「えらい人」がその規則やルールを全うできているかといえば往々にしてそうでもなく、「そうでない人」の方がパースのよく利いた視点をもっていたりもするわけだ、厳然として。まあそれはどこの企業でも学校でも、およそ組織であればたいていそうだろう。
おそらくそのギャップを埋める解決策が「対話」なんだろうとは思うのだけど、対話が適切に効果を発揮するためには、「役割」「使命」といった概念と、それに対する人々の意識を適切に分析する必要がある気がしている。
たとえば「生徒に教えられる先生」といった存在は金八やスクールウォーズ方面でしかるべき程度に私たちの社会に認識されているわけで、その作用は各所に敷衍されてしかるべきかもしれない。だから、消費者の側がメーカーを啓蒙する、というのも当然あってしかるべきで、育てねば育たないが、育たないものはない、と、いうところで、いまんとこの結論。組織であれ人であれ、育たないものはないのだ、ということにしばらく仮定してみる。
受動的な「消費者」にこの本を読んで欲しい。 「雪印100株運動」
http://www.yamaken.org/mt/kuidaore/archives/000556.html